ワイン色の海を越えて−− 中世のギリシャワインの軌跡をたどる
| Ilias Anagnostakis(イリアス アナグノスタキス) |
ビザンチン時代のギリシャ人たちは、自らのローマ帝国を兵で囲まれて守られている葡萄畑に例え、その忠実な臣民たちを神によって植えられた葡萄の木に例えた。自分たちの信仰は豊かに育つ葡萄とふんだんにあふれ出るワインで報われていると彼らは信じていて、船は貿易商品を詰める限り満載し、そしてコンスタンチノープル(アングロサクソン人たちには「ウィンバーグ」すなわちワインの都として知られていた)は地上の楽園となっていた。本物の信仰から少しでも逸脱すれば、敵に葡萄畑が破壊される結果になる−−つまり、首都が神の怒りでワイン絞りの中の葡萄のようにつぶされるとキリスト教徒たちは信じていたのである。
罰は、2度与えられた。 コンスタンチノープルは1204年に十字軍に屈した。1453年にはオスマントルコがやってきた。
ギリシャのワイン、葡萄の品種、そしてワイン醸造の技術はそもそも、そのビザンチン流の呼び名によって西洋に知られるようになった。ビザンチウム(ビザンチン帝国の首都)は、その他のことと同様ワインづくりにおいても、古来よりの東方の伝統を注意深く維持した。そしてギリシャのスウィートワインは、ホメロスが謳った「ワイン色の海」の往時と同じ貿易路を旅したのである。十字軍やベネチア人、そしてジェノア人のおかげで12世紀から大航海時代に至るまでローマはヨーロッパのワイン地図上で中心的地位にあり続けた。
中世のキプロス、クレタ、ミティリニ、サモス、エビア、ペロポネソスそして小アジアの海岸地帯の有名なワインについての最初の記述は、12世紀のコムニ二帝国時代に現れている。スミルナ、ビチュニア、テッサロニキ、ヘレスポントス、トレビゾンド、そしてアティカはすでに、ふんだんにワインを生産していたようである。ヒオス諸島やリムノス諸島、聖アトス山、そしてエビアの港やペロポネソス半島は大量の輸出も始めていた。良いワインには、たいがいギリシャから出荷されるときの港の名前が付けられた。モネムヴァシア(Monemvassia)スウィートワインはその一例である。それがペロポネソス原産で作られたものだろうが、クレタやその他のエーゲ海の島で産したものであろうが、そのワインの名前はそれがはじめに輸出されたペロポネソス半島南部の港町を思い出させる。モネムヴァシアワインは傑出した不朽の中世ギリシャワインのひとつである。ベネチア商人の手によって、それはマルヴァシア(Malvasia)あるいはマルムジー(Malmsey)ワインとしてヨーロッパ中に知られるようになった。
クレタやキプロスのマスカット葡萄もまた、挿し枝やワインとして遠く離れた海岸にたどりついた。ビザンチンの葡萄園はコンスタンチノープルが十字軍によって陥落させられるまでは、比較的守られ、孤立していた。ヨーロッパの征服者たち、そして後にはイタリア人の入植者たちが続々とやってきてギリシャと彼らの国々を往来するにつれて、ギリシャの葡萄の品種が地中海盆地のあらゆるところに移植された。そうするなかで彼らはまた知らず知らずに大昔にフェニキア商人とギリシャ入植者たちがはるかヨーロッパの大西洋岸にまで葡萄栽培を拡げたときに始まった潮流を復活させたのである。
イタリアにおけるギリシャの影響
イタリアは何千年にも渡ってギリシャ方式を用いて葡萄を栽培してきた。古代ギリシャの葡萄栽培の影響は、イタリア南部とシチリア島のいわゆる「大ギリシャ」を越え、アルプス地方にまで至っている。多くのイタリアの名前は中期ビザンチン時代に遡る−Aglianico、Aleatico、Greco、Malvasia、Moscato-Moscatelli、Romania、そしてVin
Santoなどのワインはすべて、ギリシャ起源を持つと考えられなければならない。14世紀の裁判官ペトルス・デ・クレセンチスPetrus
de Crescentiisは、ギリシャから伝わった葡萄栽培の方法についてことさらに言及している。ヴェネトVenetoワインはとりわけギリシャ式の影響を受けている。その最上級のワインはすべて天日で半乾燥させたぶどうからできるのである。強く甘いレシオトRecioto
とアマロネAmaroneは、エーゲ海の島々やキプロスからのワインをもとにしていると信じられている。
イベリア半島における影響
ジェノア人たちはマスカット葡萄をエーゲ海から南スペインに移植し、またすでに13世紀にはフランスや中央ヨーロッパに向けてキプロスから挿し枝が持ち出されている。TokayワインやMarsalaワインはいまでも、この時代にハンガリーやシシリーにたどりついたキプロス産葡萄に由来しているのだ。14世紀にはリスボンの南のアゾイアというポルトガルの港がオソイェOsoyeワインを生産し始めた。これはおそらくレバント(東部地中海)地方の葡萄を源としているマスカットワインで、今日セトゥーバル(リスボン南東方の大西洋に臨む港市)の周辺地域で見られるワインに似ている。
ジェノア人とポルトガル人が1420年にマデイラ島に上陸したとき、ヘンリー航海王子は葡萄栽培を命じた。マデイラの葡萄園のほとんどはキプロスの株に由来しているが、この島のマームゼーワインはその源をクレタ島にたどる。16世紀までにはギリシャ式ワインは有名なマデイラワインとなった。
スペインのスウィートワインの需要の高まりは——そのことが原因の一部ではないかもしれないが——ローマ帝国の終焉((時期的に)符合する。ビザンチン帝国が1453年にトルコに屈したすぐ後、アンダルシアがエーゲ海からのものを真似たスウィートワインの主要な産地となった。1490年、スペイン人たちはクレタ原産の葡萄をカナリア諸島に植え、「カナリア・サック」と呼ばれたそのワインは16世紀中を通じてイングランドで人気を保った。スペイン版やイタリア版のワインがベネチアの領土からの正統ギリシャワインと競い合い、14世紀のカタロニア人作家フランシス・エイゼミエニスFrances
Eixemienisはキプロスやクレタやマジョルカからのスウィートワインのほうが好きだと宣言しなくてはいけないような気になったほどだった。本物とコピーを見分けるために、イタリアとスペインは「グレコ(=ギリシアの)」という称号を作った。「ロマニア」という呼称はギリシャ「風」ワインばかりでなく、元祖ギリシャのワインにも使われた。
フランスとイギリスにおけるギリシャワイン
フランス人とイギリス人が最初にギリシャワインを知ったのは、十字軍遠征の時だった。コンスタンチノープル周辺やペロポネソス半島、キプロスやシリアのフランス領土は、マスカット生産地帯と直接の接触が持てたので、13世紀の南フランスに最初に登場したのはマスカットである。フランシス一世はキプロスの葡萄をフォンテーヌブロー(パリの郊外)で栽培しようといろいろ試みたが、その葡萄はパリでは育たなかった。
キプロス産マルヴァシア(古代ギリシャ人にとっての名前)は第二次十字軍遠征の後、ホスピタイラー騎士団の所領コマンダリアCommandariaで最初に生産されたとき、その中世における名前であるコマンダリアという名を得た。1224年以前、アンリ・ダンデリHenri
d'Andeliという詩人がキプロスのワインは世界一だと褒め称えていた。彼の作品の1つには、フランスの王が英国人の司祭を招いて、どのワインが最も王にふさわしいかを決めさせたコンテストの模様が歌われている。フランス、スペインとキプロスからの70種のワインを注意深く味わった後、司祭はキプロスワインを選ぶのである。
コマンダリアとマルヴァシアは、神のためのワイン、王家のワイン、恋人たちのワインと見なされた。それらは威厳があり、エキゾチックで、霊的で、魔法のようで、悪魔的だった−−コマンダリアはストレートで飲んだら危険とさえ思われていた。1344〜45年にキプロスを訪れた英国人が報告していることには、ファマグスタのラ・カバ聖堂には「人間のはらわたを焼く」生のワインを飲んで死んだ英国騎士たちの墓があるという。シェークスピア戯曲の登場人物カシオは「オセロ」の中でキプロスワインに酔いしれ、こう叫ぶ。
「おお、見えざるワインの精よ! もしそなたに既知の名がないのなら、そなたを悪魔と呼ばせてほしい!」
もちろんこのワインはフランスやイギリスにも輸出された。1352年にロンドンで開かれた王の晩餐会ではイングランドのエドワード三世、スコットランドのデビッド王、フランスのジョン二世、デンマークのワルデマール王、そしてキプロスのピーター一世にコマンダリアがふんだんに供された。
1453年、百年戦争が終わり、ビザンチン帝国が最終的に崩壊したときから、ギリシャワインのイングランドへの大量輸出が始まった。ジャンヌ・ダルクは約束通り兵士たちとともにパリでワインを飲んだ−−彼女はイギリス人をガスコーニュとボルドーから追い払い、イルドフランスに進軍してきていた。ベネチアは良く計算された外交的たちまわりで、彼女がパリに到着して間もなく、英国の王にその最上のワインを大樽8つ分贈った。フランスのクラレット(フランス
・ボルドー産の赤ワイン)が手に入らなくなったので、英国人たちは熱狂的に、東方から届き始めたこのスウィートワインに救いを求めた。フランス人はこの流れをせきとめようと、英国に向かうベニスのガレー船を幾度となく捕らえたがマームジーワインは大流行し、ギリシャ産、あるいはギリシャ風のワインは英国の宮廷で欠かせないぜいたくとなった。
1500年までには商業的競争のため、また海賊からの防衛のために巨大な船が現れ始めており、ベネチア商人たちは数隻の艦隊を作って一緒に航海した。1472年、フランスの海賊がイギリス海峡で400個の大樽に入ったスウィートワインを輸送していたベネチアのガレー船を襲った。1490年には2500樽を積んでイギリスに向かっていた船が目的地の近くまできて座礁した。
ギリシャワインはクラレンス王族公爵ジョージの死にまつわる憶測にも絡むようになった。彼は1478年に反逆罪で有罪とされて、兄のエドワード四世王によってロンドン塔に収監されたのである。物議をかもした彼の死刑執行は密かに行われ、彼は謀殺されたといううわさに火がついた。うわさによれば、クラレンスは彼が大いに好んだマームジーの樽の中で溺れさせられていたということだった。シェークスピアはリチャード三世でこの話に触れている。一人目の殺人者がクラレンスを刺してこう言うのである。
「あれもこれも、受け入れなさい。そうしないと私はあなたをマームジーの樽の中で溺れさせてしまうよ」
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