ルネッサンス時代の戦争とワイン
ギリシャ人にとってワインを飲むことは、旅と同義だ。海はワインであり、グラスは船である。人々もワインも葡萄も、ローマ帝国からロシア、ナポリ、ベニス、ジェノア、スペイン、英国、マデイラ島、カナリア諸島、そして大西洋を越えて新大陸にも旅した。15世紀後半から16世紀の終わりにかけて、キプロス島、エーゲ諸島、クレタは、はるばるシナイ山、スペイン、英国、ロシアまで学者や芸術家も輸出した。
Michele Marullo Tarchanioraは1453年にコンスタンチノープルが陥落した2、3ヶ月後に生まれたらしい。彼はイタリアで勉強し、その後巡回兵となった−−ヨーロッパの海岸地帯で任務を遂行していたエストラディオトestradiotつまりsoldati
di ventura の一員である。1472年にロシア皇帝イワン三世と、元ビザンチン皇帝の子孫であるゾエー・パライオローニャが結婚した後、マルロを含む多くのビザンチン人がモスクワに行った。彼はタタール人たちとの戦争で戦い、また、甘いエーゲ産マスカットとモネムヴァシアワインがロシアに侵攻するのを目撃した。イタリアに帰還するとすぐ、マルロはサレルノ候アントニオ・サン・セベリノ
Antonio San Severinoの後援を得、その後フィレンツェのメディチ家が彼の後ろ盾となった。1494年までには彼はリヨンで、フランス王チャールズ8世の北部イタリアへの軍事遠征のために働くようになっていた。1500年に亡くなるまで、特にフィレンツェにいた時代、マルロは軍隊での任務と同じぐらい情熱的に、詩的な自然賛歌を書いたが、ディオニュソスに捧げた詩はとくにその生命力と激しさで際立っていた。この詩人はワインの神の豊穣、時を戻しているかのようなその永続する若さと、荒々しい海の波をもなだめる彼の力をを讃えるのである。
大西洋への進出
イタリア語でグレキ・ディ・ベントゥーラ(Greci di ventura=冒険家のギリシャ人)として知られているギリシャの多くの冒険家たちは、地中海を飛び出して大西洋に向かっていった。ギリシャ人びいきの伝説のひとつはこんなことすら言う−−クリストファー・コロンブスはギリシャの貴族だった、と。少なくとも彼の航海のうちひとつはジェノア領へではなくエーゲ海のヒロス島に向かうものだった。
伝説や神話は措いておくとしても、ギリシャの船乗りはスペインやポルトガルの発見の航海に多数参加していた。ロードス島やクレタ島、ペレポネソス半島やコルフュ出身のギリシャ人たちがマゼランが世界一周をしたときに一緒に航海している。セバスチャン・カボットSebastian Cabotに同行したギリシャ人船乗りたちはラプラタ川(アルゼンチン)まで行っている。スペイン人が中南米を征服するのを、ギリシャの兵隊たちが手伝ったのである。彼らが航海に参加していたことは、南イタリア・シシリー・アンダルシア・マデイラ・カナリア諸島にすでに移植され栽培されていたギリシャの葡萄の品種が新大陸に到達したことと符合する。征服者たちは葡萄の木を船に乗せて携えて行き、コルテスは中南米の地主たちに葡萄園を耕すように強制した。
とりわけクレタ島はマスカットやマルヴァシアのふるさとであり、そして、未知の世界に乗り出していって世界中に市場や貿易路を開こうとした兵士や船乗りの多くをも生み出していた。ダロダスDarodas一族はワイン貿易がらみで16世紀のセビリア、ポーランドやモルダビアに姿をあらわしている。ニコラス・デ・ロダスNicolas
de Rrodas(ダロダス)は1520年に、コルテスのライバルであるパノフィロ・デ・ナルバエズPanfilo de Narvaezとともにメキシコにたどりついた。1年後には彼はメキシコシティとグアテマラの一部の征服に参加している。アウグスティン・デ・ロダスAugustin
de Rrodasは妻のカタリナとその間にもうけた5人の息子と1人の娘とともにワカチュラ Guacachula に住んでいた。彼はメキシコシティに到達した最初の征服者の一人であるらしい。
もうひとりのクレタ人、マニュエル・グリエゴ・デ・カンディアManuel Griego de Candia(カンディアはクレタとイラクリオのベネチア時代の名前)は1505年から1525年の間にスペインからメキシコまで少なくとも3回旅している。1525年から1530年まで、彼はベラクルスに落ち着き、たいへんな要職である船団の視察官となった。グリエゴ・デ・カンディアは十分な量のワインをも含む艦隊のための糧食を準備する責任を持っており、それをもって1526年から1533年のペルーの征服に手を貸した。ピサロの親密な協力者の一人だったペドロ・ディ・カンディアは、ペルー遠征の時、他の多くのギリシャ人たちを配下に従えていた。彼はまた、征服者たちの火器使用能力も劇的に改善した。ヂ・カンディアはクレタのもともとの住民で、マルロやダロダス一族と同じエストラディオトestradiotだった。そして伝説的な「13のグループ(Trece
de la Fama)」のメンバーでもあった。インカ帝国が陥落した後、彼はクスコに居を構えた。
1522年から1554年、地中海の葡萄がメキシコや南米の東海岸に移植された。東地中海のビザンチンの十字軍にはおなじみだったレバント地方のマスカットが、スペインから新世界に到達したのは1566年のことである。1578年、フランシス・ドレーク卿はバルパライソ湾で「ギリシャ生まれのジョン・グリエゴという人」に会い、その人を彼は「水先案内人として連れていった」。そしてチリからペルーに向かっていた船を略奪した。その船は1770個のワインの大樽を積んでいた。16世紀の後半までにはペルーの南海岸とチリが、遠くフィリピンのマニラにまでスペインの入植者たちへのワインを供給し始めていた。
1578年、この英国人のワイン海賊フランシス・ドレーク卿がチリやペルーの海岸を荒らし回っている一方で、トーマス・キャベンディッシュThomas
Cavendishが西インド諸島でスペイン艦隊の水先案内をしていたケファロニアCephaloniaのジョン・フォカスJohn Phocasと対峙していた。1592年、スペインのために40年間奉仕した後、フォカス(ファン・デ・フーカJuan
de Fuca)はワシントン州とバンクーバーを隔てる海峡を発見した。今日その海峡は彼の名を冠されている。
ホメロスの言う「ワイン色の海」地中海からアメリカ、そしてさらにその先へと、ディオニュソスはその金色の杯の中の太陽のように西へ向かって旅をした。ディオニュソスとともにギリシャの兵隊も、ギリシャの葡萄も、ギリシャのワインも旅をした。ポルトガル人たちは長い航海でワインが寝かされて強いワインになる利点を発見した。彼らがマームジーをクレタから西インド諸島に運び、バラストとしてそれをまた積んで帰ってきたときのことである。マゼランは旅の間の軍備よりもワインの方にお金をかけた。
クレタワインの栄光
カンディアからのギリシャスウィートワインは16世紀の究極のぜいたくになった。モスクワ、ロンドン、コンスタンチノープル(1453年にイスタンブールと名前を変えた)、セビリア、クラコウ、ハンブルグ、マルセイユ、ナポリ、そしてベニスの貴族や富裕層に、クレタのマルヴァシアはそのさわやかさとともにまろやかさでも気に入られた。
ワインがいかにして作られるかについて、クレタへの旅人たちが詳細を極めた描写を数多く残している。発酵前の葡萄液を煮立てること、部分的に葡萄を天日乾燥することや、古いワインと新しいものを混ぜることなどが描かれている。この島におけるワインの消費についての見聞もある。特記されているのはクレタの女性はたいへん飲んだということだ。1600年、フランスの旅行家アンリ・デ・ヴィラモンHenri
de Villamont は、クレタのワインは2種類に分けられると報告している。地元の人間が飲む、やや酸味が勝ったものと、フランス、ドイツ、オスマン帝国、ポーランド、ロシア、そして英国に輸出されるために作られる甘いワイン(vini
dolci)である。1511年から1550年の間にかなりの量のエーゲ海産ワインが英国にたどりついた。ブリストルとサザンプトンは常に、クレタ島、ヒオス島、そしてキプロス島との商業接触があった。1534年、2隻の船−−マシュー・ゴンソン号Matthew
Gonson とホーリー・クロス号Holy Crossがヒオスとクレタへの1年に渡る長い航海から戻ってきた。積載していた大樽はオリーブ油とワインで一杯だったが、航海中に損傷していて新しい大樽に移さないと荷下ろしできないことが分かった。積み替えの最中、赤のマームジーは今まで英国にもたらされた他のどんなワインよりもはるかに優れていることが発見された。カンディアの侯爵ズアン・サグレドが70年後に述べたように、英国人はすぐにクレタの赤ワインを特に好むようになった。
イタリアの諸都市がワインを含む地中海の産物の英国への貿易を再びコントロールするようになっていた。1550年から1571年のレパントの海戦までのことである。オスマンの勢力がマームジーの故郷モネムヴァシア(1540)の港を占領していた。ヒオス(1566)とキプロス(1570)も同様である。しかしラグーザ、ベニス、リボルノ、そしてジェノアからの船は相変わらずケファロニア、ザキントス(ベネチアにとってはゼンテ)そしてクレタ島の港町であるレシムノRethymnoやハニアHaniaとの交易を続けていた。
レパントにおけるトルコの敗退のすぐあとに作られたトルカト・タッソーの叙事詩「La Gerusalemme liberata」では十字軍に触れているが、解放されたイェルサレムにおけるキリスト教徒はクレタのワインをヨルダン川の水と混ぜて飲んだという16世紀の信仰を反映している。
中央ヨーロッパとロシア
オスマン帝国の行政と貿易はギリシャ人に牛耳られていた。ミカエル・カタクゼノスMichael Katakuzenos は地位を利用して、スルタン(トルコ皇帝)に影響を及ぼしモルダビアやブラキアVlachiaからの収入を支配しようとした。ユダヤ系ポルトガル人でワインの鑑定家であるジョゼフ・ナシJoseph
Nasiはナクソス候として知られているが、1550年にイスタンブールに本拠を定め、クレタワインのオスマンの貿易を独占し、1579年に死ぬまで関税を徴収し続けた。彼がスルタンに1570年にキプロスを占領するようそそのかし、その策のせいで国際市場からキプロスのワインがだんだんに消えていくことになったのであろう。スルタンがただそのワインを得るためだけにこの島を併合したというのは正しくないだろうが、キプロスの征服のために出された有名な命令はこういう語句を含んでいた。「この島には、王の中の王だけが所有できる宝があるのだ」
オスマン帝国が東地中海地域へ拡張しつづけたため、中央ヨーロッパを通る陸の貿易路が重要性を増し、それは西地中海におけるスペインとベネチアの商業独占に対する挑戦となった。エーゲ海のワイン商人は、イスタンブールや黒海からモルダビアや南ポーランドの貿易の中心地への長い陸路の旅の後、クラコウ、ルビリン、ワルシャワ、キエフ、そしてモスクワにたどりついた。ハンブルグやリューベックから彼らは英国に向かって出航し、船でジブラルタル海峡を通ってベニスに戻るしかなかった。1534年、スルタンの助けを借りてイスタンブール出身のギリシャ商人アンドレアス・カルカンデラAndreas
Carcandellaはポーランドの領土を自由に通って貿易する権利を得た。1560年から1603年にかけて、約40人のクレタ人がマルヴァシアとマスカットのワインの貿易商や流通業者としてLwowで活躍していた。ギリシャ人とユダヤ人の商人が北ヨーロッパのワイン取引の中心地であるクラコウにワインを運び、ポーランドを本拠にするスコットランド人がハンガリー、モルダビア、そしてギリシャからのワインを買い上げた。抑圧的なベネチアの貿易法にもかかわらず、力強いクレタの商人層はギリシャのワインを中央ヨーロッパを通ってフランダースやポーランド、そしてロシアに密輸したのである。
16世紀のあいだずっと、特にイワン雷帝(イワン三世とビザンチン人のゾエー・パライオローニャの孫)の時代、エーゲ海のスウィートワインはロシアの民衆の祭りなどでふんだんに出回った。ギリシャの大司教、エラッソンElasson
のアーセニオスArseniosはこう描写している。「モネムヴァシアやRhomaniaからの最高に薫り高いワインで一杯の銀の大樽、そして世界的に有名なクレタ島のマスカットワインが詰まったその他の大樽」
皇后が自ら貴族にワインをついだ。皇帝はクレタのワイン商人から金を借りた。1563年以降にLwowに居を定めたコンスタンチン・コルニアクトスKonstantin
Korniaktosは、ポーランドの貴族となり、イワン雷帝の債権者だったらしい。
一つの時代の終わり
1578年と1579年の間に二人の英国の代理人が陸路でポーランドからイスタンブールにやってきた。英国のレバントの市場への接触を交渉するという使命を携えていた。スルタンは1580年に折れて、イギリス人が新しく設立したレバント会社を通じて自由に貿易できるようにし、東地中海の商業の衰運が始まった。スペインの国家は1596年に破産した。ベネチア商人たちもすでに経済的困窮を味わい始めていた。ヨーロッパの航路はますます英国人とオランダ人に支配されるようになり、西地中海の商業も傾き始めた。1600年に設立され、レバント会社と提携した東インド会社がそのエネルギーを喜望峰(をまわる航路?)に集中するにつれ、地中海は供給者であるよりも北方の大国からの物資の受給者になってしまった。
17世紀初頭にはクレタの精神はヨーロッパで開花したが、島の商業や経済は地中海全体の不振を反映していた。1645年までにはクレタは攻囲された。1669年にはトルコに降った。
しかしながらイスタンブールや黒海を経由したエーゲ海とロシアや中央ヨーロッパとの貿易は、新しい地平を準備していた。1686年にブダペストがトルコから解放され、ギリシャの株に由来するハンガリーのトカイワインがエーゲ海人による何世紀にもわたる商業支配が生んでいたギャップを埋め始めたのである。
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